架空ケース「遠瀬郷」で考える、会社が判断すべきこと・判断してはいけないこと
本社には人事労務部門があり、産業医とも契約し、安全衛生委員会も開いている。
それでも、従業員の体調が崩れるのは会議室ではなく、現場です。
そして遠隔地や分散拠点では、その場に居合わせた現場責任者が、受診させるかどうかの判断も、本社への連絡も、一人で抱え込みやすくなります。
この記事では、海と山に囲まれた架空地域「遠瀬郷」を舞台に、遠い職場で体調不良者が出たとき、会社は何を判断し、何を判断してはいけないのかを整理します。遠瀬郷には、沿岸の物流拠点もあれば、山あいの工場や、本社から離れた小さな営業所も点在しています。今回はそのうち、沿岸部の物流拠点の話です。
なお、遠瀬郷は架空の地域であり、特定の実在地域、施設、企業をモデルにしたものではありません。
ケース:午後3時、沿岸部の小規模物流拠点で
遠瀬郷の沿岸部にある、小規模な物流拠点。
従業員は常時6名ほどで、日によっては協力会社の作業者も出入りします。
最寄りの診療所までは車で約20分。
総合病院までは約40分。
公共交通機関は本数が少なく、夕方以降は移動手段がさらに限られます。
午後3時ごろ、従業員の一人が所長にこう申し出ました。
「お腹がかなり痛いです。少し休めば大丈夫かもしれません」
顔色はよくありません。
冷や汗もにじんでいるように見えます。
ただ本人は「救急車を呼ぶほどではないと思います」と言っています。
その場にいるのは所長と数名の従業員だけ。
本社の人事担当者は別の地域におり、産業医との面談日でもありません。
この状況で、会社は何を判断し、何を判断してはいけないのでしょうか。
出発点:会社は病名を判断しない。しかし、放置もできない
最初に、この記事を貫く一本の線を引いておきます。
会社は、病名を診断する立場ではありません。しかし、何もしなくてよいわけでもありません。
腹痛の原因が何か。
緊急性がどの程度か。
治療が必要かどうか。
これは医療機関が判断することです。
現場責任者が「胃腸炎だろう」「少し休めば治るだろう」と決めつけるのは危険です。
逆に、本人へ細かい病状説明を強いたり、必要以上の健康情報を求めたりするのも適切ではありません。
一方で、使用者には安全配慮義務があります。
労働契約法第5条は、次のように定めています。
第五条 使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。
ここで、ひとつ整理しておきます。この記事で「会社」というとき、実際には二つの層があります。ひとつは、その場で対応する現場。もうひとつは、現場が迷わないための枠組みを前もって用意する本社・管理側です。法律上の安全配慮義務を負うのは使用者、つまり会社全体ですが、実務では、現場がその場で担うことと、本社が事前に設計しておくことを分けて考えると、判断の置き場所がはっきりします。
その前提で言えば、現場が担うのは、業務を続けさせてよいか、休ませるか、受診や救急要請につなぐか、誰に連絡するか、というその場の運用判断です。本社・管理側が担うのは、現場がそれを迷わず行えるよう、判断と連絡と記録の道筋を前もって用意しておくこと。以降は、この二つを分けながら見ていきます。
緊急度の判定は、現場で抱え込まない
体調不良者対応で難しいのは、「救急車を呼ぶべきか」「受診を促すべきか」の見極めです。
しかし、これをその場の現場で判定しようとすると、かえって危うくなります。
冷や汗があるからどの程度危ないのか。
本人が大丈夫と言うなら様子を見てよいのか。
救急車を呼ぶほどなのか。
医学的な緊急度の確定は、現場責任者の勘が背負うべきものではありません。
迷ったときは、医学的な緊急度判定を外部の仕組みに委ねるのが安全です。
消防庁の全国版救急受診ガイド「Q助」は、該当する症状を選んでいくと、緊急度の目安が表示される仕組みです。Web版があるため、アプリを入れていない現場でも使えます。
地域によっては、救急安心センター事業、いわゆる「#7119」で、医師や看護師に電話相談できます。
ただし、#7119は全国一律ではありません。地域や時間帯によって使えないことがあります。
だからこそ、平時に確認しておく必要があります。
自分の事業場の地域で#7119は使えるのか。
使えないなら代わりの相談窓口はどこか。
夜間休日はどうか。
誰の確認も待たずに119番する状況を、社内でどう共有しておくか。
遠い職場では、その場で何とかするより、迷ったときに使う外部の仕組みを、先に手順へ組み込んでおくことが効きます。
迷わないための、最小の対応フロー
遠隔地の小規模拠点に必要なのは、分厚いマニュアルではなく、現場で迷わず使える短い流れです。これは、本社・管理側があらかじめ用意しておくものです。
たとえば、体調不良者が出たときの初期対応は、次のように整理できます。
- 様子の変化に気づいたら声をかけ、本人の申告を確認する
- 業務を中断し、安全な場所で休ませ、一人にしない
- 明らかに緊急であれば、社内確認を待たずに119番する
- 緊急度に迷う場合は、Q助や地域の救急相談窓口を使う
- 必要に応じて、受診手段を確保したうえで受診を促す
- あらかじめ決めた相手、本社・産業医・外部専門職などに連絡する
- 対応の経過を記録し、後日、運用を振り返る
現場が担うのは、業務を止めること、本人を一人にしないこと、外部の判断につなぐこと、連絡と記録を残すこと。そして本社・管理側が担うのは、この流れ自体を、現場が迷わず使えるよう前もって決めておくことです。
病名は、どちらの役割にも出てきません。
「少し休めば大丈夫」を、額面どおりに受け取らない
このフローのなかで、現場が最もつまずきやすいのが、本人の自己申告の扱いです。
本人が「大丈夫です」と言う。
「救急車は要りません」と言う。
「少し休めば戻れます」と言う。
本人の意思はもちろん尊重されるべきです。
しかし、それだけで対応が十分になるわけではありません。
職場では、「大丈夫です」が、本当に大丈夫という意味とは限りません。
体調が悪い本人は、判断力が落ちているかもしれません。
職場に迷惑をかけたくないと、症状を軽く言っているかもしれません。
とりわけ遠隔地では、「ここで自分が抜けると皆に迷惑がかかる」という心理が働きやすく、申告はいっそう控えめになりがちです。
現場が見るべきは、本人の言葉だけではありません。
周囲から見た客観的な様子、つまり顔色、冷や汗、立っていられるか、いつもと違わないかを併せて、就業を続けさせてよいかを考える必要があります。
本人が軽く言っているときほど、客観的な様子を重く見る。
これは、遠い職場で安全側に倒すための基本姿勢です。
受診のあとの「移動」まで設計する
遠い職場では、受診を促した後の移動そのものが課題になります。
本人が自分で運転してよいのか。
同僚が送るのか。
タクシーを呼べる地域か。
家族に迎えに来てもらえるか。
夕方以降も診療所は開いているか。
総合病院まではどれくらいかかるか。
都市部なら「近くの病院へ」で済む場面でも、遠隔地ではそうはいきません。
診療所まで車で20分と聞くと、近いように見えるかもしれません。
しかし、車を出せる人がいない、本人に運転させられない、業務を離れられる人が限られているとなれば、その20分は簡単ではありません。
とくに、強い痛みや冷や汗がある状態で本人に自家用車を運転させるのは避けるべきです。
本人だけでなく、交通事故という別のリスクを生むからです。
受診勧奨とは「病院へ行ってください」と言うことではありません。
その立地と移動手段を踏まえて、現実に受診へつながる段取りまで用意することです。
記録は、次の判断を良くするために残す
体調不良者対応では、記録も欠かせません。
記録は誰かを責めるためのものではありません。
会社が何を把握し、どう判断し、誰に連絡し、何をしたかを後から説明できるようにするためのものです。
そして、次に同じことが起きたときに判断を改善するためのものです。
最低限、発生日時、本人の申告、周囲から見た客観的な様子、業務を中断した時刻、受診や救急要請に関する対応、本社・産業医への連絡、その後の勤務扱い、見直すべき運用上の課題は残しておきたいところです。
簡潔でかまいません。
記録のない対応は、次に活かしにくい対応です。
なお、健康情報は個人情報保護法上の要配慮個人情報にあたります。
保管場所とアクセス範囲を決め、目的外に使わないことも、あわせて整えておきます。
このケースで、所長がしたこと
冒頭の遠瀬郷の現場に戻ります。
所長は、本人の「少し休めば大丈夫」を額面どおりには受け取りませんでした。
まず業務から外して、安全な場所で休ませました。
一人にしないよう、同僚にも付き添ってもらいました。
顔色の悪さと冷や汗から緊急性が高いと考え、所長はためらわず119番に連絡しました。
あわせて、平時に手順へ組み込んでいたQ助でも、「いますぐ救急車を」に当たる結果であることを確認しました。
その後、本社へ連絡し、本人の申告、周囲から見た様子、業務を中断した時刻、Q助を使ったこと、119番に連絡した時刻を記録に残しました。
ここで所長は、病名を一度も判断していません。
「胃腸炎だろう」とも「大したことはない」とも決めていません。
していたのは、業務を止めること。
一人にしないこと。
緊急度の判断を外部の仕組みに委ねること。
その結果に沿って動くこと。
本社へ連絡し、記録を残すこと。
現場として担える運用判断だけです。
もしこの場面で「本人が大丈夫と言っているから」と様子を見ていたら、判断は所長一人の勘に委ねられます。悪化したとき、会社として何を確認し、どう判断したのかも残りません。
違いを生んだのは、所長の医学知識ではありません。
事前に決められていた対応の道筋でした。
そして所長が迷わずその道筋に乗れたのは、それを本社があらかじめ用意していたからです。
労働衛生コンサルタントにできること
このケースで問題になるのは、所長の判断力そのものではありません。
所長が迷ったときに頼れる手順が、会社として用意されていたかどうかです。
病名を診断したり、治療方針を決めたりするのは、医療機関の役割です。
本社・管理側が整えておくべきなのは、体調不良者対応の流れ、本社と現場の役割分担、相談先や記録の残し方です。
現場任せになっている判断を、仕組みに落とし込む。
現場責任者を孤立させない体制を、本社・管理側が設計する。
その整理を支援できるのが、労働衛生コンサルタントです。
まとめ:遠い職場を、現場任せにしない
遠い職場で体調不良者が出たとき、社内ですべきことは病名を判断することではありません。
現場はその場で、業務を続けさせてよいか、休ませるか、受診や救急要請につなぐか、誰に連絡するかを判断する。
本社・管理側は、その判断を現場ひとりに背負わせないよう、判断・連絡・記録の道筋を先に用意しておく。
要るのは、その場の気合いではありません。
あらかじめ決めておいた、判断・連絡・記録の道筋です。
遠い職場ほど、問題が起きてから個人の判断力に頼るのではなく、先に仕組みを置いておく。
遠い職場を、仕組みで守る。
遠瀬郷ケースノートでは、これからも架空ケースを通じて、遠隔地・分散拠点における安全衛生と産業保健の実務を整理していきます。
遠隔地・分散拠点の安全衛生を扱う「遠瀬郷ケースノート」の概要は、カテゴリートップで整理しています。
※本記事は一般的な情報提供であり、個別の事案における医学的判断・法的判断を代替するものではありません。緊急時はためらわず119番してください。